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ブログ2013.12.10.(火)
ぼんやりとした人生
昔、毎日ブログを書くことを日課にしていた時期があった。
とりあえず、何でもいいから書く。ネタがなきゃ好きなCDについて語ってみたり、それでも書くことなきゃその日食べたものについて書いたり。どうしようもなくて、靴下についてのブログを書いたこともある。
慣れというものは恐ろしいもので、毎日毎日あることないことをつらつらと書き連ねていると、何も考えなくても文章が書けるようになっていく。なるほど、後で読み返したりしてみると、ボキャブラリーの使い方、言葉のリズム、文章の構成、詩的な感覚の高まりなど、なかなかよく書けているなと思うこともあった。当時は本もよく読んでいた気がするし、それに知らず知らずのうち影響を受けて、ああこれは、あの作家の息遣いが聞こえてくるようだなとか、読点句読点にいたるまで何かの意図があって配されているんだなと、後から見ると思う。
僕は近年、ほとんど本を読まなくなった。なぜだろう?読みたい気持ちがないわけではない。それに、文章も書く頻度が減り、ブログの更新は止まった。なぜなんだろう?それに、音楽も昔は細部まで熱心に聴いたものだが、最近は空気に触れる程度の聴き方しかしないし、聴く頻度自体少なくなった。テレビもついていない、ステレオも鳴らしていない、ただ吹き荒れる風がガタガタ窓枠を揺らす音だけを聴いてぼおっと過ごすこともよくあるようになった。
影響というものについて考える。それに、個性、アイデンティティというものについても。
確かに、世の中見渡してみれば、皆それぞれ違うようである。それでいて、あのバンドはあのバンドに影響を受けていて・・・などというもっともらしい考察もなされたりする。
例えばこうして文章を書いていたり、曲を作って歌っていたり。
僕は一体誰なのだろう。自分の意志で文字を書き、自分の声帯を震わせて歌を歌っているつもりだが、実際は何かの強い影響を受けていて、自分の意志で歌っているわけではないのかもしれない。個性?そんなものは存在しないのだよ。と、誰かが言っていたのを思い出す。するとこの文章は知らず知らずのうちに僕に影響を与えた作家の死せる魂が書かせているのだろうし、ゼェゼェ僕の喉を鳴らしながらマイクで拾われスピーカーから飛び出す音は、誰か自分にあらざる者の発した声なのだろう。
以前なら誰かに似ているなんてことを誰かに言われたとしたら不快感しか感じなかっただろうし、僕にしかできないことをやらねば!なんて思っていたかもしれない。
でも何か、割とそういうこと、どうでもよくなってきたんです。
これもなぜだかわからないんですが。いや正確にいうと別にわからなくてもいいというか。
何だかぼんやりしている。
何だか、以前とものの見え方が変わっている気がする。でも、家の押入で見つけた小学生のころの作文を読むと、ものの見方、文章の傾向まで、まったく変わっていないんです。
僕という人間が、どこに端を発し、どういう道筋をたどり、どこにたどり着くのか。
昔、僕はそれを知りたかった。ただただ不安だったんだ。自分が何者かわからずに。
今も、自分が誰なのか知っているわけでは決してない。
けど、僕がどこから来てどこに向かっているのか。それを知るのは、全部終わってからでいいかなって、最近思うんです。唐突に終わってしまって、結局知ることはないかもしれないな。もちろん日々の生活の中では物事を整理し分類しないと車で目的地にたどり着くこともできないし、生活の雑務をこなすこともままならなくなってしまうから、そうしているけど。けど、なんだか最近ぼんやりしているんです。
そして、この文章もこうしてぼんやり終わるんです。
もう構成もくそもないな。ははは。