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ブログ2016.4.18.(月)
サクラちって、サクラ咲いて
僕は春の生まれなので、もう38回目の春が来たということになる。今月で僕も37歳だ。寒い外界と温かい身体の内側と、その境界線がはっきりした、存在の輪郭が強く浮き上がってくる冬が終わり、春の空気はぼんやり生温く、フワフワと人を曖昧な気分にさせる。僕は長い間、そんな春が少し苦手だった。出会いと別れの季節、知った人は僕から去っていき知らない人が僕の人生に訪れてきた。自分をとりまく環境はめまぐるしく変わろうとしているのに、僕らは曖昧なまま桜は繚乱と咲き乱れ、早くも春の嵐で散ろうとしていた。冬に取り残された僕がようやく春に慣れるころ、早くも街は夏の空気を漂わせさらに慌ただしさを増した。
最近は、桜も良いものだと思う。ブルーシートを敷いてどんちゃん騒ぎする人たちも以前は嫌いだったけど、今は雨後のタケノコみたいで微笑ましい。
僕らは何度も、人生など次の瞬間にも終わりを迎え得るということを様々な出来事から教えられてきたはずだが、なぜか人はそれを忘れ、なぜか人だけが今を生きることができない。福井では夜車を走らせていると、度々野生動物に遭遇する。彼らの姿を目撃すると、僕は何とも言えないような気持ちになる。認識と記憶が人を人たらしめるのは確かだろうが、過去に縛られ未来に怯えて今を生きられない人と違い、彼らは今を生きるために生きている。神聖な、不思議な気持ちになるんだ。
僕は今を生きようと思う。自分の横っ面を張って痛みを感じさせなければ自分が今生きていることを忘れそうになるのが常だが、桜の花びら舞い散る、ヒラヒラと風に舞う、今その瞬間を逃したくない。
河川敷の出店で、たこ焼きを買ってほおばる。このそんなに美味くないたこ焼きのこともすぐに忘れてしまうんだろうと思う。僕は忘れないように忘れないように生きてきたつもりだが、そのせいで今食っているそんなに美味いわけでもないたこ焼きの味もぼんやりしたままほったらかしにしてきたんだろうな。現にこのブログだって忘れないように書いているし、その一方では冒頭で何を書いたかももう忘れかけている始末である。
人々は灯りに吸い寄せられるように集まってきていた。思い思いに写真を撮ったりして。この桜の夜が鮮やかに記録に残ればいい。やっぱり僕も忘れたくはない。やっぱり今を生きるのは難しい。人間とはこんな生き物だ。
そうだなあ、誰にも知り合いに会わなかったし、ここにいるほとんどの人たちのことは知らないんだろうが、次の桜の季節もみんなここに来て春の訪れを祝ったらいいと思うよ。そんなに美味くないたこ焼きもまた食べよう。あなたたちが誰だか知らないが。健康を祈っている。遠くのひかりは、誰かの命だ。
町は祭の季節だ。準備が進んでいる。僕の知らないところで一年に一度の祭の準備をして忙しく過ごしている人がいる。桜も一夜にして咲いたのではないんだな。冬の間も彼らの内側では準備が進んでいたんだ。火花のように一瞬にして起こって消えるものではない。人生は一瞬の火花などではない。
今年は祭の当番だ。福井に帰ってきて初めての参加だ。やってやるぞ。
メダカを飼い始めた。田んぼの脇に群れで泳いでいたのを、連れて帰ってきた。彼らにとっては不運だったかも知れないが、メダカがチョロチョロ泳ぎ回るのを見て、この春を後々にも思い出せるといい。
追記
熊本の人たちの日常が、早く戻ってきますように。